5年前の今日という日を思い返す
多くの人が同じテーマで書くでしょうがやはり触れない訳にはいきませんので北村も振り返ってみます。
2011.3.11
その瞬間私は戦国無双3をやっていた。
(出落ち感満載だが事実だから仕方ない)
その瞬間思ったのは
「液晶テレビが折れる」
体験したことない揺れの中、とにかくテレビを持つのに必死だったのを覚えている。
(実際多くの家庭で液晶テレビが折れたらしい)
まだ片付けていなかった組み木の雛人形5段飾りは崩れていた。3/3が終わったら早く片付けようと心に誓った。
時はちょうど下校時。
「娘を迎えに行かねば」
恐らく連絡網等で知らせる余裕などないだろう。
すぐさま学校へ向かい、校庭に待機していた生徒たちの中から娘を見つけ出した。
この時の娘の安堵の表情は忘れられない。
実はこの日は大切なテンプルワークの日だったが諸事情で欠席していた。
もし出席していたらさぞかし娘に不安な思いをさせただろう。不謹慎の謗りを受けるのを覚悟の上で言うなら、欠席して良かった、娘の顔を見てそう思った。
当時まだ小4の娘は家でもずっと防災頭巾を被っていた。
状況を把握する為つけたTVには、大津波や地面の割れたディズニーランドが映し出されていた。
ここに来て、この地震が未曾有の災害であることをようやく認識しつつあった。
それからは、影ながら災害復興に向けた様々な活動に追われることとなった。
今思えば良くやってたなと自分を褒めたいが、被災地まで行けない自分の不甲斐なさを責める日々が続き、それは今も尾を引いているのかもしれない。
あの日をきっかけに日本人は変わると思われていた。
しかしながら、復興が進むにつれ次第に以前の惰性に戻っていったように思われる。
これだけの災害を経験しながら、人というのはかくも現状にしがみつく生き物なのだろうか。
街は過剰な照明で溢れている。
大企業は未だ原子力発電を推進している。
私が大好きな祖母の故郷も原子力発電を再稼働させた。
私は直接の被災者ではない。
それでも3.11による精神的ダメージは大きかった。
それは多くの日本国民に当てはまることだと思っている。
そんな傷を見たくなくて、思い出したくなくて、わざと震災を忘れようとしているのかもしれない。
震災から5年。
もう傷が癒てもいい頃合いでしょう。
今ふたたび震災のことを思い出し、これから自分がどう生きるべきか考えても良し、自分の痛みを受け止めるも良し。
そして3.11で奪われた尊い命、未だ故郷に帰れない方々の為に祈ってみてはいかがでしょう。
今日1日は、動くのをしばし止めて想いにふけるのも悪くない。
復興のシンボル(ではない)
イエロードクターリラックマ
新横浜駅にありました
本業はヒーラーです
人生を楽しくする言葉をつくる栄養士
MMS公認ヒーラー北村佳代
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