「仲間」は無償で自分を助けてくれる便利屋ではない
タイトルは言うまでもなく中の人が思っていたことです
自分より優秀な人達ばかりの中にいると、どうしても彼等におんぶにだっこして欲しい!抱いて!!という発想が頭をもたげるのは仕方ないことかもしれません。
抱いてはNGだとして、周りにいる優秀な人達が単にひとりひとり存在しているだけならばそんな発想は出てこないかもしれません。
だが「仲間」という心地よいキーワードが出てくるとついつい甘えたくなってしまうのは何故なんでしょうねえ。「お互い助け合いましょう」という考えだって、そのお互いが「仲間」である前提からきてますしね。
あと、「仲間」の中に入っていると、例えば自分が何もしていなくとも仲間達が何かやってると自分まで何だかやってる気になってしまうのが怖いところ。
仲間って一部の人にとっては何だか麻薬みたいな存在なのかもしれません。
常習すると仲間なしでは何も出来なくなってしまうあたりが。
一人では成し遂げられない高い理念の実現を目指すために「仲間」が必要
これ正解ね。
理念というのは高ければ高いほど実現困難となっていく。
それでも実現させるためには、一人ひとりが実現させることにしっかりフォーカスし、かつ現実社会における実行力を持っている必要がある。
もちろん、実行を進める人をサポートする人や、単にいるだけで楽しいからおkという賑やかしポジの人まで、様々な仲間もカタチがあるだろう。
ただ、一人ひとりが独立している必要はある。
誰かに頼る人が出ると、その人の世話にパワーが奪われ理念の実現に支障をきたすことだって出てくるのだ。
それが冒頭で書いた、「仲間におんぶにだっこしてもらいたい人達」であり、下手すると足を引っ張るような存在になるとも限らないのだ。
そんな人はジャマなのでシカトした方が良い
あ、中の人がシカトしたんじゃないですよ。
中の人はシカトされたがわ(ry
多くの場合、仲間は別に足引っ張る人をシカトしたくてシカトする訳ではない。
ただ理念実現を実行させる為に構ってられないから結果的にシカトしているのだ。
足を引っ張る人はそれを理解出来ずに「仲間なのに助けてくれなーい」と愚痴る。
仲間は、自分で出来ない事を助けてくれる便利屋(しかも無償で)ないことを十分に理解する必要がある。
それが理解出来ないと、自分が本来なら出す事の出来るパワーを出す事が出来ず、結果「便利屋」という名の仲間に依存することが続いてしまう。それは自分の人生の為にも非常にもったいない事だ。
もし依存を許してしまう「仲間というグループ」があるとすれば、そこは依存を利用して何らかの営利を得ようとするグループであると心得た方が良いだろう。
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